『恫喝』
おいら、昭和世代。昭和教育で日本人として教育を受けた。昭和日本に洗脳教育されている。戦後昭和。高度経済成長期昭和。
「体罰」「恫喝」なんて当たり前。逆にそれが無いと物足りないぐらいに洗脳されているのではと思ってしまう。学生時代も社会人になってからも。
就職してからも社内の人からも、お取引先や顧客からも、今では完全アウトな『恫喝』を何度も受けている。その『恫喝』のなかから相手が何をもとめているか、何を訴えているかが分かるのである意味重要なものであると思う。時には『+暴力』もある。愛のムチである。もちろん、中には行き過ぎた『恫喝』も多々あり、今であれば訴えれば完全勝訴である。
恫喝も心への暴力、昨今のハラスメントと同様に受ける側の捉え方で大きくかわり、する側がコントロールできるものではない。
そんな『恫喝』ハラスメントなんてマイナス方向へはいっさい捉えていなかったおいら。あるとき、心にかなりのショックをうけたことがある。
一回目の休職から復職した後、大先輩から『恫喝』を受けた。恫喝的には当然アウト。
おいらは、他の同僚と二人で業務の話をしていて彼は会話には参加していない状態であったが、会話の内容は聞こえていたと思う。会話に入っていないので部分的にしか聞こえていなかったと思う。ご自分の過去の仕事が否定されていると思われたのか、おいらに対して突然激怒りし、激高、恫喝してきた。おいらは、勘違いもあるとは思いつつ、平謝り、お詫びでその場は収まったのだが・・・。
その場がおわり時間が経過してから、おいらの感情&認識の中には別のものが沸きあがってきた。それは、おいらが休職中にその方に多大なるご迷惑、ご苦労をかけていたことだ。それがその方の心の中にあり、琴線に触れてしまったために噴出させてしまったのではないかと思った。そんなおいらが同じ職場に復職し仕事していること自体がよく思われていないのではないかとまで思うようになってきてしまった。それはその方だけではなくおいらの周りの人間も同様にそう思い、休んでいたのだからもっとペナルティーを受けるべきではないかと思っているのではないかと勝手に思うようになってしまった(認知のゆがみ)。
休職後の復職先として同じ部署に復職したおいら、常に心の裏側には「うしろめたさ」があったと思う。その「うしろめたさ」が『恫喝』ですらプラスの方向へ向けることができる強靭な精神を、一瞬にして逆方向へ向けてしまうカウンターパンチよりも威力のあるものへと変えてしまったように思う。
今でも『恫喝』される悪夢にうなされて眠れず寝汗まみれになる。
熱い熱帯夜が続くようになっただけではないように思う・・・。
いろんな意味で『タフ』だと思っていたし、『タフなヤツだな』と言われたり思われることに美徳を感じていたおいらだが、ずいぶんと弱くなってしまったものだ・・・。
復活できるのか?!・・・